
10年前に、新聞やテレビで「イジメを苦に自殺」との見出しやテロップが頻繁におどったときがあった。そして現在、その当時に増して毎日「子どもの自殺」「いじめ」の報道が続いている。その数の多さも、小学生までもが自殺するという低年齢化の現象をとっても、10年前の教訓が生かされるどころか、問題は更に深刻化したと言わねばならない。
「遺書」も公表されている。
◇
学校のみんなへ
この手紙を読んでいるということは私が死んだと言うことでしょう。わたしは、この学校や生徒のことがとてもいやになりました。それは、3年生のころからです。なぜか私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から「キモイ」と言われてとてもつらくなりました。
6年生になって私がチクリだったのか差別されるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。一時はおさまったのですが、周りの人が私をさけているような冷たいような気がしました。何度か自殺も考えました。
でもこわくてできませんでした。
でも今私はけっしんしました。(6年生女子児童 以下略 朝日新聞から)
◇
死を覚悟した日常の中で、静かな表情で書き記したのか、苦悶に身をよじらせながらエンピツを走らせたのか想像だにできないが、現実に自己完結しおおせた少女の生きてきた「時間」というものが、いったいどのようなものであったのか、僕には理解できないでいる。なぜ、12年間という自分の生きてきた人生を、自らの手で閉じることができてしまうのだろうか。
自らの死を選ぶ側と、死を選ばない側の肢かれ道はいったいどこにあるのだろうか。 (06年11月27日連載開始)
切り裂かれたノート
私のノートが、カッターで切られてあった。私はとってもくやしかった。ふつうの交かん日記とちがうのに。友だちからもらったノートも大切にしていた。だれかが私をうらんでいるのだ。
私は、なにもしていないのに、されるってことは、わたしがいてほしくないんだ。いらないんだよね。ようがないから。学校にはきたくない。みんなのかお、見たくない。
5年生の3学期、遠足の前の日だった。終わりの会の時、かよが「今、かばんの中見たら、私の学習長がカッターで切られてんねん」と悲痛な声で訴えた。ノートの半ばまでに達する深さで、二筋、三筋と鋭く切り裂かれた切り口から、肉塊がめくれ上がるように、真っ白なページの厚みが覗いていた。みんなも言葉を失い、僕もつらい思いにうたれて、その日は終わった。
放課後、かよから電話がかかってきた。「家に帰って交換日記を書こ思たら、それもカッターで切られててん・・・」
電話口の向こうでうなだれている、かよの姿が目に浮かんだ。
「とにかく明日は遠足やから、いろんなことを忘れて思いっきり遊ぼうや。次の日、きみの思いのたけをみんなにぶつけて話し合いやってみよう。どうや?」と僕は答えたものの、簡単に気持ちを切り替えられるものでもなし、かよの悲しさは大きいだろうな、とそんな返事しかできなかったことに申し訳なさを感じていた。
翌日、教室に行くとかよをまん中に女子達が取り囲んでいた。手には「切り裂かれた交換日記」を握り締めている。その場でかよはみんなに訴えている。言いながら、悔しさがこみ上げてくるのだろう、ウォンウォンと涙をこぼして泣き伏してしまった。
出発時間を過ぎても、1組の女子は誰一人集合場所に現れない。「こら1組は遠足を中止して、話し合いやらなあかんかな?」そんな思いが頭をもたげてくるのを覚えながら、僕は教室に向かった。女子達は、泣き伏しているかよの声を聞き、話しかけながら、「気持ち分かるけど、今日は我慢して遠足に行こ。クラスのみんなも遠足に行きたいし、他のクラスの子もみんな待ってんねんから」と呼びかけている。
両手で目頭を覆っているかよを抱きかかえるようにして、遠足の列は出発した。かよの荷物は女子が交替で持っている。
遠足は実に楽しいものだった。いつの間にか、かよも普段の明るさを取り戻し、友達を遊び、喋り合い、大笑いし合っていた。往復4・5時間の山道を歩き通し、全員心地よい疲れに浸りながら、終わりの連絡をして、「明日、かよの問題を話し合う」ことを確かめて解散した。そのときかよは、「今から私のことで話し合ってくれると思ってたのに」と怒り、プイと背中を返して一人帰っていった。
それにしても、切り裂かれていたのは他の誰のノートでもない、やっぱりかよのものなんだ、と思わずにおれなかった。
「暮らし」を見つめる
被差別部落に生きた女性の生い立ちを読んだ感想を、かよはこのように綴っている。
◇
・・・わたしのお母さんは、むかしびんぼうで、学校にはちゃんといってるんやけど、「給食のときがいやだった」って言っていました。みんなは、おべんとうを持ってきたり、家に食べにかえったりしていました。でもお母さんが家にかえっても食べるものなんかぜんぜんありません。おっちゃんとかが来て、「また家で食べてんのか」ってゆわれたら、お母さんは「うん、家で食べる方がいいもん」てゆってすましてる、って言いました。
「びんぼうやから、しゅうがくりょこうも行けんかった。それが一ばんくやしい」とゆっています。おばあちゃんだって、字がよまれへんし、書かれへんから、けっこんするまで、ぜんぜんものも言いませんでした。けっこんしてから字をいっしょうけんめいおぼえ、しゃべれるようになりました。お母さんも、子どものころによく「こじきの子」ていじめられました。だから、まさよさん(「生い立ち」の筆者)もせなかに「わたしはすけべです」て書かれてはらたったのが、とてもくやしいと思います。
なんでくやしいのが、そんなにわかるかというと、わたしは、ようちえんのときからずーっといじめられてきたからです。今でも、「わぁ、くさいや、くせぇー」ってにげられたりします。わたしがいるから妹がいじめられてかえってきたりするのです。何かいろいろあって、「思い出」みたいに思ったりするのです。あんまりいややから、とびだしたり、男子にとびかかったりして、まるできょうぼうな人食いオオカミのようでした・・・。
◇
炭鉱夫をして働く祖父と、選炭婦の祖母が結ばれ、身を粉にするようにして働きながら、つつましくも幸せな家庭を作っていたが、祖父が身体をこわしてからは、転げ落ちるように生活が苦しくなり、流れ歩いて大阪に居を構えることになった。祖父はリヤカーを引いて廃品回収に回った。祖母は他の男と駆け落ち。そして今、同居している。二人の間に生まれた母は、中学も満足に行かずに、働きづめに働いて身体をこわし、手術を繰り返して、今も自由にならない身体で寝起きしながら家に居る。5人のきょうだいのこと、かよの父のこと・・・等々、母親は突然ニュウッと現れては、埒もないことを喋って行く僕に向かって、とつとつと自分の歴史を語る。
かよもシンドイ。母もシンドイ、祖母もシンドイ。そしてかよは家族の歴史と、生活の現実を知り尽くしている。かよは、2年生のときに転向してきて以来(おそらくは前の学校でもそうであったにちがいない)、いつもクラスでも、学年の中でも、「いじめられる」側に立たされ続けて来た。家に帰れば、どういうわけか、母親と祖母の怒りが間断なくかよひとりの上に浴びせかけられる。学校で同じ立場に立たされたであろう兄や姉達の不満も容赦なくかよに向けられる。やり場のない、やりきれない憤りのはけ口をかよに求めているということなのかもしれない。
「かよは何度どん底を覗いたことだろう?」僕の中にもやるせない哀しさがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。
そんなとき、3・4年生まで「されたり」「言われたり」した時に、うずくまってしまうだけのかよが、学級会や授業の中で堂々と立ち上がり、にらみつけながら思いのたけを語るようになった姿を思い浮かべ、その努力と勇気に感嘆するようにして、僕の心の中のわだかまりを吹き払おうと試みるのだった。
かよの生
卒業後、中学校に進学してからも変わらない。「わたし、無視されてばっかりやねん。学級会や学年集会開いてほしいと先生にも頼んでみたんやけど、あかんねん」などと小学校を訪れては、喋りこんで行く日もあった。
そのころ、家を出てから帰宅するまで、一言も、生徒同士でも、教師とも誰とも喋らない毎日を過ごしていたという。校内暴力が常態化し、教室を抜け出したり、校舎の隅でタバコをすったり、夜はシンナーを吸引しながらラリッていたグループにも自ら接近を試みるのだが、彼らからも頑なな拒否にあい、「仲間入り」を拒否されてしまう。
やがて不登校、家出。そんなかよを受け入れたのは、駅前で知らない者同志が集まる「走らせ」の若者達だった。お互いをニックネームで呼び合いながら、その時、その場だけのつながりを作って、夜毎車の暴走に耽っていた。そして横転事故。久しぶりに再会を果たしたのは、病院の集中治療室に横たわる姿だった。
退院と同時に児童保護施設へ強制入所。翌日、脱走。次にぼくの前に現れたとき、妊娠を告げた。ちょうど下の娘を妊娠していた妻とかよの二人の妊婦が、外目には目立たない腹を、それでも少々外股で、前にせり出すようにしてかっぷくよく並んで歩く後ろを、僕は周囲の目を気にしながら、おずおずと病院の産婦人科に付き添ったものだった。
時間を生きる
新聞やテレビで「いじめを苦に自殺」との見出しやテロップを目にするとき、ある種感慨を込めて思うことがある。かよは自死することはなかった、と。むしろ制御しきれない生のエネルギーに翻弄されるかのように生き続けてきたとさえ僕には思われる。「いじめ」で、自らの死を死ぬ側と、死を選ばない側の岐れ道はいったいどこにあるのだろうか。
かよは、母や祖母が生きてきた時間、それは決して幸せといえるものではなかったかもしれないけれど、その時間を引き継ぐようにして生きてきた。たとえ全身で反発しようが、否定しようが、否応なく引き摺りながら、自分の時間に重ねて生きてきた。完結などできようはずのない錯綜した時間の中で生きざるをえなかった。或いはそのような中で、社会というものを、生き方というものを、その生々しい断面とぶつかりながら、かよなりの流儀で体得してきたと言えるのかもしれない。
かよがそうであるように、「いじめられる」側に立たされる子ども達があり、一方「いじめる」側に立ってしまう・立たされる子ども達がいる。「障害」を持って生きる子ども達がいる。被差別部落に生まれ、育った子ども達がいる。外国人の子ども達がいる。家の生活の家中に投げ込まれて生きる子ども達がいる。虐待を受ける子ども達がいる。子ども達は一人一人、自分の生活、個人史を引きずりながら、教室の机に座っている。時にそれを重ねあい、時に切り結びながら、共に学び、共に歩んでいく。「共に生きる」から様々な事件、出来事が起こり、問題が生まれる。問題が起こるから学習が生まれるのだと思う。しかし、「ちがい」を排除し、単一の価値観を強要する、現在の硬直した「制度としての学校」の中では、多様な価値観が出会い、認め合う学習など生まれようはずもない。
かよは今、母や祖母がそうしてきたように娘と共に自分の家族史を生き始めている。このしたたかな生きる力が、学校教育の中で学んだものでないことは確かである。
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