
奇妙な時間(05年10月10日 連載開始)
新学習指導要領の目玉の一つとして「総合的な学習の時間」が新設された。小学校で年間105〜110時間、中学校で70〜130時間(小・中の学年によって違う)、高校では3年間で105〜210時間というのだから相当な時数である。しかもこれまでの指導要領が事細かく目標、内容を示し、「教える」順番、「教え方」にまで言及せんばかりであったのとは違って、「奇妙な」時間となっている。総合的な学習の時間については、「内容」や「目標」は一切示されていない。「総則」において、授業のねらいや配慮する事項が示されているのみで、それらは小・中・高と基本的には全く同じものとなっている。
また、「各学校における総合的な学習の時間の名称については、各学校において適切に定めるものとする」(総則)となっていて、この時間の学習については「教科のように試験の成績によって数値的に評価はせず」ということが、中教審答申や教育課程審議会答申で繰り返し述べられてきている。名前も自由、テストもない、全て各学校の創意工夫にお任せといわんばかりの時間が生まれたことになる。
「総則」に書かれている「ねらい」とは次のようなものである−
「総合的な学習の時間においては、次のようなねらいを持って指導を行うものとする。
▼自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。
▼学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること。」−
これは、「できる・できない」でふるいにかけ、子ども達を差別選別してきた、頑迷なる能力主義に貫かれた、これまでの学校教育の対極にある考え方と言ってもいい。むしろ、「総合的な学習の時間」に限ることなく、どの教科の学習においても目指されるべきものであると、僕は思っている。
こうした「新しい学力観」と呼ばれるものは、実は決して目新しいものではなく、30年以上も前から全国各地で諸先輩達が取り組み、実践を積み重ねてきたものでもあった。それははじめに「授業の形や方法」があるのではなく、一人ひとりの子どもと、その子どもが生きる社会、生活を見つめ、真摯に向き合う関係の中から、一つ一つの実践を紡ぎだしてきたものである。それが解放教育という結実も生んだ。それらの実践を見聞きし、真似るようにして取り組んできた、僕も一人であった。
「おもしろい授業だが本当に力はついているのか」「理想論としては理解できるが、現実はそんなに甘いものではない」「実際に受験競争はあるのだから」「教科の勉強は遅れないか」「変わった先生だ」等々と、文部省、教育委員会や教師達、保護者からも批判や疑問の声を、時には冷笑すら浴びせ掛けられながら、それでも頑固に取り組み続けてきた、いわば日本の教育制度と対峙したたたかいの積み重ねであったと言ってもいいだろう。「何をいまさら総合学習なのか」と言いたいのではない、今後の「総合的な学習の時間」の取り組みと成果が、おそらく今回の改訂から10年後になされるだろう教科の再編成に大きな影響を与えるであろうし、教育改革の成否を握る鍵となるにちがいないと思うのだ。(つづく)
さて、どうするのか(10月17日更新)
学校教育をがんじがらめに縛り続けてきた張本人である文部科学省が、今度は掌を返すように、「時間も上げます。子どもを育てるためなら何をしてもよろしい、各学校で創意工夫を凝らして、特色ある学校づくりをしなさい」と言い出し、学習指導要領にまで明記したのだから、現場の混乱は容易に想像がつくというものだろう。
これまで学習指導要領を後生大事に信奉し、指導書と首っ引きで授業をしてきた者ほど、その混乱振りは大きいにちがいない。「文部省に裏切られた」とうそぶく声までが聞こえてきそうな気さえする。教育委員会の指導主事が各地の研修会に赴き、「主体的に判断し、よりよく問題を解決する能力や資質を育てる」「自己の生き方を変える」等の歯の浮くような言葉を並べて指導する姿も滑稽に思えてくるというものだ。
本格実施の初年度にして、既に「総合学習はもうすぐなくなるらしいで」と、まことしやかな話が職場に流れたり、「総合学習反対論」なるものを声高に唱えたりする教師達もある。友人が「まるでエーリッヒ・フロムの自由からの逃走やなぁ」と漏らした呟きに、なるほどと感心したりもした。
ちょうど1989年の指導要領改訂時に「生活科」ができたとき、現場の教師達が途惑いながらも、試行錯誤を繰り返し、子ども達が楽しく学習する姿を思い描きながら、あの手・この手の手作りの授業を作り出していたのを思い出す。或いはここから、子ども観や学力観、授業内容の変革がもたらされるかもしれないと、期待を持ったこともあった。しかし、生活科の教科書が出され、業者が副読本や生活科ノートの類をあまたこしらえて職場に持ち込むにいたって、今やそれを使って授業するのが当たり前になってしまい、他の教科となんら変わり映えしなくなってしまった現実が一方である。
2002年の新学習指導要領本格実施の前後には、全国の業者が作った総合学習の解説書や、宣伝のダイレクトメールが職員室に氾濫していた。やがて「副読本」と銘打った代替「教科書」の案内が、頭を抱えながらも、それでも何とか総合学習を生み出そうと悪戦苦闘する教師達の手元に届けられてくるようになるのだろうか。子ども達にそれを購入させ、ページをめくりながら教室で勉強させる教師達が出現することになるのかもしれない。
「英会話研究所」などと称する民間業者から電話がかかることもあった。たまたま受話器を取った僕の耳元に若い女性の事務的な声が響いた、「今年度から小学校で英会話の授業をすることになったのはご存知ですね。そちらの学校の英会話のカリキュラムはどのようになっていますか」。文部科学省のお墨付きを頭上に頂いたような一方的な物言いに引っかかり、「なぜあなたに学校のプログラムを教えねばならないのか」と、受話器を通した相手に向かって声を荒げてしまった。
指導要領の「総則」に、「国際理解に関する学習の一環としての外国語会話等を行うときは」と、あくまでも「総合的な学習の時間」の例示として一行書かれていることを取り上げて、マスコミも誇大報道し、業者も市場開拓に躍起となって、いつのまにやら「小学校で英会話をしなければならない」かのような話になってしまう。あわてて英会話教室に通わせる親もある。ましてやなぜ英語でなければならないのか。ブラジルや中国から渡日した子どもを中心に、皆でポルトガル語や中国語を学んできたし、料理や遊びを通じて文化にも触れてきた。日本に最も近くて、関係の深い韓国・朝鮮のハングルを学習してもよいはずではないか。
現在では、「英語特区」の指定を受ける市をはじめ、どの小学校でも「英語・英会話」の授業が総合的な学習の時間を使って取り組まれている。「3年生以上に英語の授業を受けさせる」という文部科学省の方針も出されたところである。「うちの幼稚園は漢字と英会話の英才教育をします」と看板を出して宣伝に努める幼稚園があると聞くが、なんだかそんな笑い話が、真顔で学校現場に進行しているような気がしている。
資本の側が学校を格好の標的として触手を伸ばしている。当の文部科学省自身が、相も変らぬ「学力低下」というステロタイプな言葉に振り回されて、腰砕けしかねない弱弱しさが映る。「総合的な学習の時間の新設や、特色ある学校づくりとはそんなものではないだろう」、思わず言い放ちたくなるほどに、学校はてんやわんやなのである。(つづく)