第9回竜一忌 2013年6月22日
 今年の「竜一忌」は、「反戦・反核・反原発」を掲げて行われた。主催の草の根の会を代表したあいさつでも、パンフレットにも梶原得三郎さんはこう締めくくられた。
「竜一忌は、来年の第10回が最後となります。お互い生身ですし、国政はその体をなさず、原発事故はなかったことにされようとしています。世上は混沌を極めていて、この後何がどうなるやら見当もつきません。
 ここで、これまでのご協力に対し、心からお礼申し上げます。出来ましたら来年、もう一度お目にかかりましょう。」
 松下竜一さんとの出会い、草の根通信の連載、著作の読書、松下さんとの文通、会話のやり取り、そして松下さんの死。その後の竜一忌の思い出などが、一気に私の頭を巡った。
 「生きる道を教えてほしい」とまでは言わないが、「今自分がいる場所を知るための羅針盤」であってほしいと願い続けた‟竜一忌”が、いよいよ最後を迎えることになる。
 梶原さん、草の根の会の皆さん、来年必ず参加します。





 講演に立った安川寿之輔さんは「思想家、教育者として明治初期の国づくりに大きな足跡を残した」と評価される、1万円札の肖像でおなじみの福沢諭吉は、「実は日本のアジア侵略とアジア蔑視思想の先導者であり、昭和日本のアジア侵略に道を開いた」と厳しく糾弾する。
 その福沢諭吉批判を「郷土の偉人』と称賛する中津の地で話すことの意義を語られた。また、同郷の松下竜一さんが福沢の本質を見抜き、鋭く批判していたことを高く評価された。
 松下さんはこう書いている―明治18年3月、「時事新報」に福沢が発表した「脱亜論」はよく知られている。わが日本はすでにアジアの旧態を脱して西洋文明に移ったが、中国・朝鮮は依然として古きにとどまっていると、福沢は言う。
 日本としてはこれら隣国の開明を待つよりは、西洋の文明国と進退をともにし、〈其の支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従いて処分す可きのみ〉と言い切るのである。欧米列強と共に日本も中国・朝鮮を侵略すべしと説くのだ。
 実際この時期、福沢は政府に対し中国への天皇親征を進めるほどに攻略の熱は高揚し、〈我輩は今日死するも固より供養読経を願わず、唯支那談判の仕末如何を地下に聞いて冥せんと欲するものなり〉とまで述べている。この主張は福沢の晩年を一貫して、日清戦争勃発するや「空前の一大快事」と歓喜を隠さない。
 私が気に掛かるというのは、東アジアの人々の目には福沢諭吉が、正にこのような近隣諸国蔑視者、侵略主義者として見えているに違いないという点である。そうであれば、そのような人物を「国の顔」に選んだということは、傍若無人と受け止められても仕方ないのではないか。
 現実にいま、日本が「円」の力に任せてアジア諸国でふるまう様を見れば、その気掛かりは杞憂とは思えなくなってくる。買春観光であり、国内を追われた公害企業の進出であり、次々と森林を丸裸にしていく買い占めであり、バナナ園での搾取であり、果ては放射能廃棄物を他国の海に捨てさせよとまで言う厚顔無恥ぶりである。このような思い上がりと、福沢をお札の顔に選んだ基準とは、はたして無縁と言い切れるのであろうか。
 
そして最後にこう結んでいる。ここに松下竜一さんの重厚な思想と、裏や斜めや多面的な視野から見つめる文学の手法と、郷土の「傑物」に思いを寄せる豊かな人間観を、私は見るのである。
―私はやはりわが町のフィーバーに水を差すようなことを言ってしまったのだろうか。だが、福沢精神に照らせば、このような発言も許されていいのだろう。丸山真男によれば、福沢精神の神髄とは、〈何がきらいといって、そのときの大勢に順応したり、あるいはすでに定まった世の中をあとから弁護したり、画一的な世論に追随するということくらい彼の本意にそむいたことはなかった〉のであるから。
  

 今年も全国からの参加者によるリレートークが持たれた。大先輩北村小夜さんと、竜一忌の場でお会いするのは、格別の感慨があった。東京まで日帰りするというのだから、相変わらずのエネルギーに驚嘆する。上関原発反対闘争の報告や、オープニングで披露された映画『いのちきの思想 松下竜一・日出生台 2000~2004』の監督、西山さんからも挨拶があった。