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「子どもの募金活動、富めるものと貧しい者 」について
@松井さんから
今日はおつかれさまでした。会場では言わなかったけど、気になったことが一点ありました。5,6年の授業で、ネパールに何をしてあげるかというのを考える授業です。そもそもの発想が「富める者から貧しい者への施し」になっていませんでしょうか。もしそうなら、その発想はワシは好きではありません。「施し」「プレゼント」で、こちらはいいことをしたという気分になるのでしょうが、相手はそれをどう思うか、というところまで問題にしたいな、と思っていました。最後に発言された方の「学ばれる側の・・・」という言葉にはそのニュアンスが含まれるのではないか、と勝手に解釈しています。ともあれ、貴兄のこどもへの問題のおろし方、それと、視野の広さやそこからくるであろう「しなやかな」と言える戦い方には感服しました。しんどい状況も、その中での光明も、合わせて理解し、息の長い戦いを・・・ワシもせなあかん、と思っちゃった。次回は24日の「○人の会」でしたね。また出席させていただきます。A松森から
松井さま昨日は参加していただきありがとうございました。松井さんのご指摘、まったくその通りです。教師としてはまさに「それ」(「富める者が貧しい者に施すことについて」、あるいは「わたしたちの豊かさとは」)をテーマにすることを考えていたのですが、結果としては学習できたとは言えないのだと思います。ちょうどよい機会だし、またよく批判される(言葉として言われることはあまりないのですが)ところでもありあますので、自分なりにふり返って書いてみようと思います。「弁解」と紙一重のような気もするのですが、松井さんなら受けてくださるのではないかと思っています。ちょっと付き合ってください。返ってお手数かけてもうしわっけないのですが。ありていに、できるだけ自分のその時々の気持ちを思い起こして言えば、最初のとっかかりはユニセフ協会から児童会に届いた、支援を求める手紙でした。「貧困にあえぐ発展途上国の子どもたちを支援してほしい」との内容です。担当であった私は、そのまま読み上げました。子どもたちは「すぐにやりたい」と言い出して、様々な活動に取り組み始めました。そして「世界で困っているかわいそうな子どもたちを応援しよう」という呼びかけを始めました。私はそれに対して意見を言わなかったし、もちろん止めることはしませんでした。最も肝心で重大な課題がそこにあるから、だから子どもたちの「言う通り」にしよう、子どもたちの考えて実行するのをそのまま認めようと思いました。それも結構「覚悟」がいるものでした。むしろ普段頭ごなしに指導しようとする教師たちから、これ見よがしに「かわいそうな子どもたちというのは、人権上問題がるのでは」と、何度か言われたりもしました。しかし、先ほど言ったように大事なことだからこそ、任せようとしたつもりです。ここで、「学ばれる側の立場」はどうなのかと言われるかもしれませんね。「かわいそうな」と言われた相手の人たちのことをどこまで考えていたかと言えば、正直なところなかったと言わねばなりません。「学ぶ側」の子どもたちのことは考えていましたが。次の年、4月に3年〜6年までの学級会で「今年の児童会でやりたいこと」が話された時、多くのクラスから「ユニセフ活動」という声が上がりました。そして取り組みが始まるのですが、今度は、子どもたちから「自分たちが応援する相手の人たちのことを知りたい」「だれに送るのか、その人たちのことを知りたい」という声が上がってきました。実際に行動を起こしてみると、「かわいそうな子ども」ではなくなるんですね。「相手のことをもっと知りたい」といいだした子どもたちの感性の正しさを改めて感じました。児童会で、どこに援助を送りたいのか話し合い、アフガニスタンの子どもたちを支援することが決まりました。当時アフガニスタン空爆後のようすが報道されており、世界の最貧国としても紹介されていました。さっそくユニセフに行って相談すると、ユニセフでは相手国を決められないとの返事で、NGOを紹介していただきました。そこからNGOに行って研修したり、児童集会にゲストティーチャーとして招いたり、と交流と学習が続き、アフガニスタン人のアジマル君を紹介され、アジマル君たちに全校生の手紙(絵のカード)と、ぼ金を送る活動が始まりました。それがスタートであったと思います。「富める者から貧しい者への施し」になっていませんでしょうかとのご指摘ですが、まさにそのテーマを私は子どもたちと考えたい、総合学習と児童会担当という私の位置から言えば、全校の子どもたちと考えたいと思っていました。5・6年の授業と、児童集会(全校集会)、児童会活動の中で。そして児童会活動と、5年6年の総合学習が毎年続いていくことになります。では、それができたのかと言えば、松井さんが言われるようにできなかったのだと思います。お金を送ること、援助すること・されることの問題について提起したり、現地の人たちの思いに寄り添う、実際に現地の人と交流する・・・などの取り組みはしなかったのですから。退職せずに続けていたらやっていたかもしれません、が分かりませんね。5年6年の教師たちとは、「豊かさを考える」テーマの授業として、「水俣」「大震災」「開発教育」の3本柱を意識していたのですが。さてその理由はなんなのか、いろんなことが考えられるような気がします。今はこのあたりで、またゆっくり話ながら教えていただければと思っています。
B松井さんから
わかった。さすが松森くん。子どもたちから出てくるまでゆっくりと、でも、しっかりと待っていたのですね。「自分たちが応援する相手の人たちのことを知りたい」という言葉が子どもたちから出たのが素敵ですね。(「素敵」という言葉は中2の時の松本先生がよく使っていた言葉やで。覚えてる?)その点、ワシなんかはがまんできずにこっちからアクションしてしまいます。ワシのアクションも紹介するので、受け止めてください。ワシが4歳のころの話です。教材にしようとまとめました。(今まではすべて口頭での「おはなし」として子どもたちに投げかけていました。でも、教材としてまとめた時点は、支援担から抜けられない状況。お蔵入りになってしまっている、というのがオチなのですが。「福神漬け」教材・教材観福神漬けこの話は、私が4歳のころ経験した話です。私は62歳。1951年、昭和26年に生まれました。戦争が1945年に終わったので、1951年といえば戦争が終わって6年たって生まれたということです。そして4歳になったということは、戦争が終わって10年ほどたった頃のできごとです。戦争が終わって10年といっても、町にはまだまだ戦争の傷跡はたくさん残っていました。デパートのある繁華街に行けば、道端にはたくさんの傷痍軍人さんやおじいさんおばあさんが空き缶を前に置いてお恵みを待ってならんでいらっしゃいました。4歳の私は、最初はその光景がわからなくて、母親にたずねました。母は「あの人たちは、戦争に行って手が取れたり、足が取れたりして働けないの。だからパンやお米を買うお金もなくて、このままでは死んでしまうかもしれないの。だからみんなに少しでもいいからお金をください、と待ってはるんやで。」「あの人は?」と、私は座り込んでいるおばあさんのことも聞きました。「あの人は、もう年をとって働けなくて、やっぱりお金をください、と待ってはるんやで。」4歳の私はしばらく考えて、母にねだりました。「ぼくもお金をあげたい。」おかしや飴玉を買うためのお金をせびると、なかなかくれない母が、この時にはすっと一円玉2,3枚を私にくれました。私はそれを座り込んでいるおばあさんの前の空き缶に入れました。するとそのおばあさんは。4歳の私に深々と頭を下げて「おありがとうございます。」と言ったのです。私はすごくいいことをした、という気分になりました。それ以来、母と歩いていて、傷痍軍人さんや道端に座り込んでいるお年寄りを見るたびに、私は母に小銭をもらい、空き缶に入れて、「おありがとうございます。」という言葉をもらうことが習慣になりました。その頃、兄の高志は小学校の2年生。その兄のクラスに、学校に来ない友だちがいました。たまたまその子の住まいが高志の通学路にあり、また高志は級長だったこともあり、担任の先生に頼まれて、高志がその子の様子を見に行き、学校へ来るように声をかけてあげることになりました。高志は行くにあたって福神漬けを持って行きたいと、母に頼みました。その子は両親がいっしょに住んでなくて、4歳ぐらいの弟と二人で住んでいるのでした。子どもたちの噂話では、両親は子どもを学校に行かせなかったから警察につかまった、ということでしたが、今から思えばそれは間違いでしょう。でも、7歳と4歳の兄弟が二人だけで暮らしているのは事実です。食べ物は暮らしている部屋の大家さんが毎日その日のお米をくれているそうで、二人はそれを飯盒で炊いて食べているそうです。水道は大家さんのうちの水道をつかっているものの、薪は自分たちで集めてきて米を炊いているそうです。そしておかずは…ない。ないのが当たり前だそうです。それで高志は「福神漬け」を手土産に持って行きたいと考え、母にねだりました。この時も、母はすぐにそのお金は兄に渡していました。そんなやり取りを見ていた私は、高志について行く、と言い張りました。私は普段から兄の高志にはどこにでもついて行く弟だったし、こんなに心が躍る現場にどうしても行ってみたかったのです。私の駄々に負けて、高志も私を連れていってくれることになりました。その兄弟の住まいに着いた時には、兄弟はいませんでした。住まいは、住まいとは言えないベニヤ板で造られた「物置」でした。開き戸を開けると、中は真っ暗。窓も電灯もありません。暗さに慣れると、一畳ほどの広さに布団らしきものが敷きっぱなしになっていて、なにやらいろいろと散らかっているのがわかりました。しばらく待っていると、その兄弟が帰ってきました。弟は明らかに私と同じぐらいの歳の子でした。高志の来訪に兄の顔には戸惑いと不機嫌さが現れたように、私には思えました。高志は「福神漬け、持ってきた。はい。」と言ってビニル袋に入った福神漬けを差しだしました。一瞬、弟の目は輝きました。でも、兄の顔はよけいに曇りました。数秒後、兄は高志とは目を合わさないまま手を出し、高志から福神漬けを受け取りました。そのあと高志の「学校においでや。」という言葉にも目は合わさずに「うん。」とうなづいただけでした。教材観戦後の貧しさはかなりのものだったようだ。兄が1歳ぐらいの時に、1円の木のおもちゃを買い与えたい母は、何度も思案して、向こうにはおもちゃ屋がある京阪電車の踏切を何度も行ったり来たりしたと、母が笑い泣きしながら語ったことがあった。私が物心ついた頃、私たち兄弟のおもちゃ箱にはクルミが2個はいっていた。3歳上の兄、高志は小さい頃に栄養失調になったそうだ。母は医者に勧められた栄養価の高いクルミの5個入り一袋を買い、薬のように一日一個食べさせた。3個まで食べた後、残りはまた元気がなくなった時に、と置いていたのが、ついに食べることなく、おもちゃ箱行きになった、と後日聞いた。父は「あのころは、日本中が貧乏だったから、貧乏が苦にはならなかった。」とよく言っていた。それでも、私たち家族は平均以上の裕福さだったと思う。私が4歳のころは餓死者がいても不思議ではない時期をやっと抜けた頃ではないだろうか。だから、物乞いのおばあさんに数円を施すくらいの余裕はあったと思う。数円を空き缶に入れてあげると、おばあさんは頭を道路に擦り付けるように下げ、4歳の子どもに「おありがとうございます。」と言う。私はそれを、このおばあさんは本当に感謝しているのだ。僕はすごくいいことをしたのだ、と思っていた。だからあの兄弟に福神漬けを持って行ってあげると、きっと喜ぶにちがいない。感謝されるにちがいない。そんないい場面に僕もぜひ立ち合いたいと願って兄に付いて行った。ところが、その兄弟の兄は喜ばなかった。でも、喜ばないまま福神漬けは受け取った。私はその時にはその兄弟の兄の態度や行動が、いつものおばあさんや傷痍軍人さんと違うことが理解できなかった。ほぼ同じ年齢の兄弟で、一方は貧しいながらも毎日3食母親が作ってくれて、腹いっぱい食べ、温かい布団で母親に添い寝をしてもらいながら寝る生活をしている。片や、一日一合か二合の米を恵んでもらい、薪を調達して自分で飯盒で炊き、運が良ければ漬物の一切れでもありつけるが、運が悪い日には塩すらなく、炊いたご飯を二人でがっつく生活をしている。裕福な者が貧しい者に分け与える(施す)というのはそんなにいいことなのだろうか。かえって傷つけることもあるのではないか、と意識したのはずっと後からだが、私の人生でこの出来事がきっかけになったのは間違いない。そして、だったらどうしたら良いのか、良かったのかは、未だに答えが出ていない。少なくとも、裕福な側にいて貧しい者に施すということは美談でも何でもないと思う。ひょっとしたら罪滅ぼしにすらならないのではないかという意識は今でもある。困っている友だちがいたら、「助ける」という答えより、「いっしょに困る」方を選びたいがそのやり方もわからないまま歳を重ねてしまった。この話は、私の「おはなし」で子どもたちに伝えようと思っている。子どもたちの表情を見ながら補足しつつ45分ほぼ全部おはなしの時間とする。(はしょれば30分か)4年生相手に、これは「種をまく」授業だと考える。根が出て芽がでる子が何人いるか、また、いつ芽が出て成長するかは多くは期待しない。また、種を蒔かれたばかりの子の感想もあまり聞こうとは思わない。思考が完結しないまま温めておいてほしいから。つまり、この授業はおはなしをして終わりという何の工夫やテクニックもない授業になるということだ。てなことを、毎年わかろうがわかるまいが、子どもたちにおはなししてきました。あらためて自分の文を読み返してみると、松森くんの行動と、ワシの母の行動は似ているわ。待つというのは、子どもを信じることなのかもしれませんね。んじゃ、またね。
C松森から
松井さま『福神漬け』、素敵な教材ですね。私は結構「すてき」という言葉を使うのですが、これって松本先生から受け継いでいるのでしょうか?【困っている友だちがいたら、「助ける」という答えより、「いっしょに困る」方を選びたい】これが松井さんの思想ですね。こんなことがありました―ずいぶん以前になりますが(20年くらい前でしょうか)松谷みよ子さんの講演会があったのですが、お話を伺った後質問をしたくなって手を上げたのですがあたりませんでした。聞きたかったっことは、松谷さんの作品も、よく教材として授業で使われるのですが、ページや段落や節などで区切って、読みを交流したり、或いは、文の意味や、一つの言葉や一語に込められた作者の気持ちを考える授業がなされるのだが、作者からすれば、自分の作品が、切り刻まれるように教材として扱われることをどう思われるのだろうか、と。私も教室ではそのように作品を分解しながら授業をやっているのだが、家に帰って子どもの寝床の横に添い寝して、松谷さんの童話を読みながら、私の方が寝入ってしまう。そんなときとても幸せな気分に満たされているのに気づいたことがある。「わかる・伝わる・答える」以上に深く豊かな体験(豊饒な体験といってもいいでしょう)があるのではないかと思いました。『福神漬け』はそんな教材ではないでしょうか。※松井さんと松森の教育対話@Aみたいですね。また時間を掛けてのんびりと続きができればうれしいです。