
| 「総合学習と学力の相関が明らかになった」との文科省の分析と報告を受けて (2014年8月20日~) ◆(松森)文科省が「総合学習と学力の相関が明らかになった」と分析し報告しています。 (毎日新聞8月19日 東京朝刊から) ◆(松森)そらそうでしょうね。でも報道が少ないと思いませんか。もちろん、学力テストの点数が良かったから、総合学習が良いと言いたいのではないのですが。 ◇(Hさん)総合学習と学力とに相関関係があるといきなり言われて、現場の教員は納得しているだろか。ステレオタイプ化された総合学習をこなしているのが大半の学校なのではないか。成果を上げたとする学校があると聞いて驚いているのではないか。 私は教科から派生する発展的な学習であれば、やってきたし持続可能であると思うが、主題から入る総合は重すぎると思う。準備にかける時間が確保出来ない。教科授業の準備さえままならない現状で、総合学習の効果を言われても現場は困惑するだけではないか。今の最大の懸案は、授業以外のことが多すぎる教師の勤務実態の洗い出しであり、授業を最優先する改革だと思う。 ◆(松森)Hさん、ありがとうございます。示唆に富んだご指摘に返事を書いていたら、(またまた?)長くなってしまいましたので、新たにコメントとして投稿することにしました。よろしければ読んでみてください。 ◇(Nさん)森さん、先ほど、古文書ひもといてたら、この澤圭一郎記者と2002年に高槻市教組主催の「学力問題シンポ」で共演してたよ。年寄るといろんなこと忘れてしまうな。 ◆(松森)ことの本質をしっかりとらえて取材する記者もあるということですね。そんな記者が少なくなってきたということでしょうか。応援しなくては。案の定、今朝の朝刊各紙(うちは朝日ですが、たぶん他紙も?)は、「学力テストの結果」を大々的に報道しています。朝日は1面ではありませんが(高校野球のせいではないかと疑っているのですが)3パージに渡って書いています。「総合学習が学力を伸ばす」という文科省の分析と報告を載せたのが、毎日1紙だけということと比較すると、メディアの世論操作・誘導の現実が明らかになってきます。今朝の記事でも、「総合学習と学力の相関関係」の文言を使っているのは、毎日だけかもしれませんね。 ◆(松森)総合学習について、改めて考える Hさんの示唆に富んだコメントに返事を書いていたら長くなってしまいましたので、改めて投稿することにしました。考える貴重な機会になりました。 私は総合学習を大切にしてきたし、必要だと考えています。残念ながら「ステレオタイプ化された総合学習をこなしているのが大半の学校なのではないか」とのHさんのご指摘は認めざるを得ません。総合学習の時間をお荷物のように扱う教師たちがあることも知っています。私も教科から派生する発展的な学習を総合学習としてたくさん取り組んできました。むしろ子どもたちが、教科学習の中で問題を発見したり不思議に出会ったりして、そこから追求する試行錯誤の取り組みは、豊かな学習を生み出しました。また、「総合的な学習の時間」が始まったころは、教科書もないし、参考書もない、指導要領に「やり方」もないので、職場の仲間たちと頭を寄せ合い、ああだこうだと工夫を凝らしながら授業をやったものでした。そのときの授業は熱を持ち、子どもたちの楽しそうな表情があふれていたように思います。 二つの問題を考えてみます。 ▼Hさんがいわれるように、「今の最大の懸案は、授業以外のことが多すぎる教師の勤務実態の洗い出しであり、授業を最優先する改革」であると思います。実際他の先進国と比べて、日本の教師たちの仕事量に占める授業の割合が、圧倒的に低いという調査結果が出ていました。 ▼総合学習一つ取り上げても、その時々の政権や、政治、経済、社会の状況に翻弄されているのが如実に見えてきます。教育そのものが翻弄され続けてきたといえます。日本という国は、文化が根付いていない国だと思わされます。時代や政治や経済の影響を受けない訳はないのですが、荒波を受けながらでも、しっかりと大地に根付いて、暴風に対してはしなり、洪水に対してはしっかりと岩盤大地をわしづかみにして耐えるような、持続するしなやかさと力強さとでも言ったものがないような気がしてなりません。 私は総合学習しか認めないと言っているのではありません、本当に子どもを育てる授業と教育の営みを求めたいと考えています。総合学習はその重要な一つだと思います。最近、「教える授業から、学ぶ授業へ」とことあるごとに言い続けています。安倍政権や今の経済界は、「教える側」からしか教育を見ていません。「子どもが学ぶ」姿などつゆほども目に入らないでしょう。なぜなら「教える・教えられる」関係は、序列化を生み、「支配と支配される関係」を必然的に生み出すからです。彼等は、〈考える子ども〉〈学習する子ども〉を求めないし、そんな子どもになってほしくないのです。従順に「支配・被支配」の関係に従ってくれないだろうから。 憲法26条の、「教育を受ける権利」とは、「教える権利」ではなく「学ぶ権利」を保障しています。私は〈考える子ども〉〈学習する子ども〉が活躍できる授業や教育内容をつくりたいと思っています。 ◇(Hさん) 松森さんのおっしゃりたいことはよくわかります。ほとんど同感です。結局問題は教師の力量だと思います。私は現在算数しかやっていないので、教科の立場から発想してしまいがちですが、算数では、子どもが自分から考えたくなる授業を組み立てることが文科省から薦められているにもかかわらず、そうした授業を見ることは稀です。それすらできずに子どもが自ら問いを立て考える総合学習を指導することは無理というものです。逆に言えば、算数で面白い授業ができる教師は、その先を知りたくなるような子どもを育てているのです。もう一つの気がかりは苅谷剛彦氏が指摘した二極化です。総合学習の効果はできる子に顕著であり、できない子との格差を拡大したというのです。総合学習の狙いを否定するつもりはありませんが、以上の2点に留意する必要があると考えております。 ◇(0さん)松森先生、総合的な学習の時間については、高校で私も随分取り組んできました。共同学習も授業形態の一つとして活用してきました。教科学習の中に「調べ学習」「発表学習」などコミュニケーション能力・情報活用能力の育成を考えてやってきました。その中で、松森先生の仰ることも頷くところはあるのですが、私の経験からは、全員の教員が出来るようになることは不可能であると思います。それは、教員それぞれが自分の価値観に従って学校に来ておられるようなので、授業の優先順位を環境からだけでなく、その方の意志によって上位に位置づけられない方をたくさん見てきました。その先生の「人徳」に頼らざるを得ないのかなと寂しく思っています。多様性を認めようという一方で、「私の行っていることが絶対正しい」と仰る方も多く、そんな方に出会うたび、日本の教育は厳しいなぁと寂しく思っています。FBを見せていただいての感想です。 ◆(松森)Hさん、投稿から3分後のお返事に脱帽しています。まだ見ぬ方なんですが集団的自衛権のコメントから引き続いてのお便り、なんだかとても近しく感じております。勝手にごめんなさい。と書いていたら、Oさんからも鋭いコメントをいただきました。お二人ともまさに現場からのご意見ゆえの迫真力と問題提起を感じます。私もご指摘の現実をひしひしと感じています。私も現場でたくさん議論をしましたし、それこそケンカもしてきました。だけど、ひとつだけちがうんです。「結局教師の力量の問題」と言ってしまいたくないのですね。 ◇(Nさん)皆さんに同感。その上でも一つ、教師を授業に専念させても、教育課程の編成権を取り戻さないとどないもならんと思う。今日の学校現場のしんどさは授業以外の文書処理などに追いかけられている面もあるが、首長や議員などが教育現場の自立性を奪って介入して来ていること、マスコミの姿勢、それらによって形成されたともいえる保護者の意識など多様な要因、国の政策、等々によって、教師自身が主体性を奪われている。 ◇(Hさん)松森さん、教師の力量をどう上げるかについての現場の知恵が問われていると思います。現場ではどうにもならない現状があるので、あちこち探しては勉強している人がたくさんいますが、現場をなんとかしないことには底上げは難しいですね。 ◇(Oさん)Nさん、つまらん文書処理も出来ない人がいたり、様式に従わずにそんなところで個性を主張したりと「教員の常識は世間の非常識」のようなこともたくさんありますよ。そんなことでやりとり(言い合い)する前に……と思いますよ。(笑) 少なくとも私が行ってきた高校での授業は教師が伝え、考える場を作る主体であることは奪われることがありません。教科書を教える先生はたくさんいますが、教科書で伝える教師が少なくなりましたね。今し方指導書で覚えたことを当然の知識のごとくはったりをかます先生はたくさんいましたが、多角的な視点を持つためにたくさんの経験をしてきた先生は少なかったですね。何かと言えば「権利権利」と叫び、当然のこともせずに大きな顔をしている先生が。そんな先生がいらっしゃると若い教師は何をモデルにしてしまうのかと寂しい限りです。 ◇(Hさん)Nさん、同感です。日本数学教育学会の先生方の中には、素人が教育行政をやっていると憤っている先生もおられます。 ◇(Hさん)私はまず、授業の公開を基本にしてほしいと思います。その中で授業とは何か、子どもの学びがあったかなかったか、その手立てについての議論の蓄積が重要です。評価も教員の相互評価を取り入れるべきだと考えます。 ◇(Oさん)Hさん、教育行政に関心を示さない先生も多いので、とんちんかんになってしまうことも多いようですね。教員が政党にかかわらず様々な議員と語り合う機会があれば、もう少し教育行政も変わるかもしれませんね。(無理かなぁ~) ◇(Hさん)議員は守備範囲が広いので難しいですね。また、わかっているほど、政治が口出しすべきでないと考えている議員が多い。何といっても教委の体制が問題だと思います。異動が早すぎ、多すぎです。ただの事務屋さんがぐるぐる動いているだけなので、現場のことがわからないのです。教師が忙しかろうと数字のある書類さえそろえばオッケーなんです。 ◇(Oさん)Hさん、教委の体制は大きな問題だと思います。専門外の人間が口を出してややこしくしたりしている現状もありますね。数字と様式に従った文書を教師が作れたら、現場がイニシアを握れる部分が大きくあるのですが、それを潔しとせず、議論をされる先生がいたので私は困りました。予算を取ってきて,生徒にとって貴重な体験が出来ればと考えていたのですが、校内のやりとりで消耗することが多かったですね。こちらとしては委員会を活用するつもりでいるのに、「言いなりになるのか!」というご批判をよく受けました。ナンセンスですね。 ◇(Nさん)例えば、ある市の小学校では、小学校一年から英語が全学年に導入された。毎日15分の授業をやらねばならない。時間は総合的学習の時間を使えということ。 ここには英語学習導入の是非だけではない多くの問題がある。今日の学校現場の現実を象徴している事例の一つだ。 ◇(Oさん)私は小学生の段階から授業として英語指導を導入するのは反対の立場です。朝読も反対の立場ですが、導入が決まったなら、それをどのように児童生徒にとって有効に活用するかへシフトを変更することが大切だと思っています。だから、四の五の言わずにどうこの機会を有効利用できるかに重きを置きました。自分の価値観にこだわるべきところかどうかをしっかり考えたつもりですが、指摘することは結構皆さんするのですが、時間は流れているのです、児童生徒にとっては貴重な時間だと思うのですが。「話の本筋を離れている」とご指摘をいただきましたが、私は目の前の児童生徒にとって、ひいては我が子であれば、と考えて行動していますが、教育現場に「(政治的な)運動」が持ち込まれるのは、あまりいい気持ちはしないです。 ◇(Nさん)そうです。近頃はその教育現場に「(政治的な)運動」が持ち込まれるので教職員が疲弊しているのです。この小学校一年から毎日、英語学習というのはその典型ですね。 ◇(Oさん)その英語学習をうまく使えませんかね~。難しいですが、英語嫌いをなくすような工夫を教員が楽しめる要素を持たせて、提案できないかな~と考えます。その前にまず教員の疲弊をうまく解消するなりコントロールできる術を(これを疲弊せずに出来る)リーダーが学んで、「遊べれば」いいですね。外野なので無責任に聞こえると思いますが、私は努力してきたつもりです。そして今、その教員集団に失望して疲弊しているので発言する資格はないのかもしれませんね。Nさん、難しいですよね。 ◆(松森)ちょっと別の仕事をして戻ってきてみると、ものすごい白熱した議論に発展しているのにびっくりしてしまいました。別段まとめるつもりはありませんので、言いたいことを書きます。安倍晋三は戦後レジームからの脱却の一つの柱として、教育を支配しようとしています。そのもくろみは着々と進行しています。ほとんど邪魔されることなく、と私には見えるほどです。大阪の橋下も同じようなことをやりました。そして現実に現場はとても息苦しくなってきています。 最初に書いた「教育が政治や政治家、経済の成り行きに翻弄されている」ということだし、教育の根っこにあるべき日本の文化というものが、いかに脆弱なものであるかを示しています。 しかしどっこい、すべて「やられてしまう」かといえば、そうではありません。押し付けられたものを最小限の被害にとどめたり、あるいは逆手にとって授業を展開する人たちもあります。教育という仕事がきわめて人間的な営みであるからだと思います。 このまま行けばますます学校現場は疲弊し、教職員の人間関係も薄くなり、つまり授業も学校行事も、子どもたちの活動も硬直化していくことになると思います。でも、親や子どもたちと直接出会い接しているのは、まぎれもない教師たちです。学級通信を書く、手紙を書く、話す、一緒に行動する、それは教育委員会でも、地方の首長でも、ましてや安倍にできることではありません。これは大きな力ではないでしょうか。現状は五分五分とはさすがに言えませんが、「やられまくっている」よりは、四分・六分くらいの可能性は残しているのではないかと、勝手に思っています。 だから「私なりにはやっている」と、私は言います。周りからも「私なりにはやっている」と声が聞こえます。全国では何万、何十万、それ以上の「私なりにはやっている」がきっとあるのでしょう。しかし現場は一向に変わらない?いやちょっとは変わっている?私も分からなくなりました。 若い人たちはこの議論どう見ているのでしょうかね。投稿してくれたら面白いのですが。 ◇(Iさん)単なる保護者ですけど、議論、興味深いですね。 よくわからないこともあるのですが、私なんかが訊ねてもよいですか?【総合学習の効果はできる子に顕著であり、できない子との格差を拡大したというのです】とは、どういうことなんでしょうか? ◇(Nさん)松森さん、あんたの言うとおり。 ◇(Oさん)うーん、私は松森さんの言うとおりとは、言えないです。学生時代には、左翼と呼ばれる仲間の中にいましたので、右も左もそれぞれの中に正すべき課題は山積してます。どちらか一方が正しいとは言えないと考えています。 ◇(Mさん)議論に刺激されました。小学校の授業が今、まさに「学び合い」全盛になりつつあると思っていましたが、松森さんの言うように明治の学制発布以来、為政者の教育政策は「教えるー教えられる」「支配ー被支配」の関係を教化し、支配者に都合のいい民の再生産を意図してきたという認識に立ち、「学び合い」の授業づくりを見直さなくてはならないと思いました。授業は「子どもが学ぶ」或いは「子どもが共に学ぶ」ものであるべきです。正解ありきではなく、「自分の言葉や考え」など、主体性の育成・支援を柱に、「教室は間違うところだ」という「ゆとり」を通して、じっくり時間をかけて、単語ではなく文で発言しながら「伝え合い」「話し合い」「聞き合い」、疑問や問題を解決していくという授業は、「主題・探究・表現」という単元構成を持つ「総合学習」そのものです。ステレオタイプ的な総合学習でさえも体験や実感を重視してきました。ところが、よく見かける「学び合い」の授業は話し合いが殆どです。「発表学習」も時間的に多すぎる発表会になってしまいます。そうなると基礎・基本は大丈夫か?なんて考えてしまいます。 今、基礎・基本を後回しにして国語科などで並行読書なるものが流行しています。国語科の学び合いをテーマに研究授業があるけれど、 例えば7〜8時間かけてきた文章を3時間ぐらいであらすじが分かればいいとして、すぐに自分の課題を探究する別の読書に取り組みプレゼンするといった、云わば総合学習のような国語の授業がいいとする大学の先生がいます。これは、ある意味で時宜を得た説だと思うが、今、総合学習や生活科が停滞し影を潜めて久しいから、若い教師が総合学習や生活科全盛期のような「主題・探究・表現」という単元構成をもつ創造型授業の典型を知らずして、果たしてうまく出来るのでしょうか?疑問です。前述の先生は子どもに任せたらいいと言います。基礎・基本の徹底はその子に応じてその都度教えればいいと言います。どの子も活用が目標なわけで、到達目標に準拠した指導と評価ではないから、それでいいとのことでしょう。とてもよくわかる教育論です。しかし、一人ひとりの多様な学習の支援と指導を一人ひとりを大切に丁寧にしていくことはとても時間のかかることでしょう。学校現場は教員の授業づくりに割く時間は多忙な校務のため少なくなっているとのことです。だから、取り組むに当たり、教育内容の相当な精選と自主編成が、求められます。果たして自主編成、教育の自律は可能か?ということになり、堂々巡りとなり、不毛な論議です。では、何が打開となるでしょうか? ◆(松森)Iさん、私も【総合学習の効果はできる子に顕著であり、できない子との格差を拡大したというのです】ということがわかりません。その反対の話はよく聞くところなんですが。そもそもこの時間の学習については「教科のように試験の成績によって数値的に評価はせず」ということが、中教審答申や教育課程審議会答申で繰り返し述べられてきていますので、「できる・できない」の評価とは無縁のところで取り組まれていると思っています。 Mさん、「基礎基本の徹底」難しい課題ですね。基礎基本の力とは何を指すのかを問うことも必要なのかもしれません。「では何が打開となるでしょうか?」、うーん、これも難しい。ただわたしは、打開するためには若い人たちとの対話が必要であると考えています。 |