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1991年に出され、いわばその後の教育改革の幕開けを宣言した「第14期中教審答申」について、触れておく必要があるだろう。〈国の側〉が、何を求めて「教育改革」を唱え、「改革」に何を託そうとしたのか、情熱をすら感じる文体で書かれてある。
新学習指導要領が本格実施されて3年が経過した現在、文部科学省・教育委員会の方針や、「教育改革」の実態を見れば、あまりにもかけ離れてしまった感がある。
14期中教審答申 (10月29日連載開始)
〈官の側〉の書いた文章に心動かされた経験は全くないと言ってもいいのだが、極めてまれな経験をしたことがある。
「産業の発展がかなり大幅に教育に依存し、しかも世界のこれまでの諸地域の歴史において例の少ない急テンポであった日本の変化を考えてみるなら、教育が他の先進諸国にはあまり見られない無理を強いられ、効率中心に走り、余裕を失うなどの欠点を少しずつ強めて今日に至ったということもまた、もう一方の事実として、否定することはできないであろう。もし教育に現在何らかの病理が発生しているとするなら、それはあまりに短期間に達成された日本の産業面での成功のいわば代償であり、裏面の歪みであるとも言えなくはない。」
文部大臣から「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」諮問を受けた、第14期中央教育審議会(以後中教審と記す)が1991年に出した「答申」の書き出しである。
(11月8日更新)
読みながら不思議な戸惑いと違和感を覚えた印象がある。「むしろこれは〈私たちの側〉が30年以上も前から言い続けてきたことではないのか」と。中教審は「期待される人間像」の答申など、反動的な教育政策を推し進める。文部大臣の「手先」のシンクタンクであり、まぎれもない〈敵の側〉に位置するはずであった。集会やデモで、こぶしを振り上げて「チュウキョウシン反対」とどよもしたものだった。なんだか力こぶを作るほどに握り締めたこぶしをいったいどこに振り下ろせばいいのか、釈然としない居心地の悪さを感じてしまった。
読み進むうちに、「これは正面から向き合わねばならないぞ。生半可なことで批判できるものではなさそうだ」と思わされてきた。少々長い引用になることをお許し願いたい。
◇
・・・現代は、「学校」が国民に近代的な自由や希望を与えることを急務とする時代だとはもはや必ずしも言えないであろう。にもかかわらず、「学校」を社会的地位上昇の手段とする期待感情だけは、国民の間に、今までもまだほとんど純粋な形で残っている。否、「学校」への期待感情は残ったという程度にとどまらない。時代とともに大衆化し、より幅広い層に支えられ、一段と熱気を帯びた。その結果人々は「学校」に逆に縛られるようになった。・・・これは教育をめぐる今日の、大変に逆説的な事態といえよう。すなわち、学歴とはわが国ではかって人々に自由や希望を与える思想であったが、今やある意味で単なる「未来投資」の思想であり、その意味で競争回避の思想でもある。学歴獲得のための競争は、真の意味での競争ではなく、競争という冒険が本来人間に与える勇気や生命力とは正反対の側にある非生産的な情熱に流されやすい事態となっている。
・・・日本の教育が平等でかつ効率的であるのは何によっているのか。すなわちアメリカ型の教育の平等化・大衆化に耐えながら、なお学力水準を維持し、産業社会へ人材を効果的に送り出す適応性の高さと柔軟さが誇り得るのはいったい何によってであろうか。それはなんとも逆説的なことだが、あのうっとうしい学校間「格差」―息苦しい進学競争に日本人を駆り立てる一因となっている―によっているのである。・・・日本は学校間の「格差」や「序列」によって、平等への情熱をうまくさばき、能率の低下をも防ぐという知恵で巧妙に切り抜けてきたが、同時にこれが偏差値偏重による教育の歪みと受験競争の激化を招いている真の原因でもあったのである。
偏差値偏重や受験競争という国民を苦しめている病気の原因が、見方を変えてみると、実は社会の微妙なバランスの保全に役立っていたことを悟らざるを得ない。
偏差値偏重や受験競争の災いをこれまでにどうしても取り除くことに成功しなかった原因はそこにあった。われわれは日本の社会の安定維持のための装置が、他面で病気の原因でもあったという恐るべき現実から目をそらしてはいけない。これまで受験競争の災いの軽減を目指した教育改革が常に頓挫し、目に見える決定的改良効果を上げ得なかった真因は、この身動きならぬ現実
を正視しなかったことにある。(つづく)
(11月21日更新)
・・・さらに、日本の社会にとって大切なもうひとつの問題がこれに付随している。「平等」と「効率」のよさは教育制度にだけ反映しているのではなく、日本の産業社会そのものの性格でもあるという問題である。教育制度は社会のいわば縮図である。・・・社会人を含めた日本人全体の生き方が改まらなくて、教育だけをよくしようというのは虫がいいし、不可能なことなのだ。日本人が自らの生き方を変えずして、教育を良くする政策を他人に、学校に、関係官庁にだけ期待している限り、いつまでたっても根本的な変化の波を教育の世界に引き起こすことは難しいであろう。日本の教育の運命は、学校や文部省や中央教育審議会の手の中に握られているのでは必ずしもない。例えば、わが子の進学に目の色を変え、わが子を外見の良い、収入の良い職業人に仕立て上げることのほかは深く考えようとしないタイプの親がどれくらい多いか、また、採用にあたって学歴を重視し、個性や癖の少ない均質な労働者を求めることのほかは深く考えない企業がどれくらい多いか、それによって左右されるのである。そして、親の心を動かすことも、企業の体質を変えることも、なん人にも容易にはできない。
・・・時代の転換点に差し掛かっているわれわれは、「平等」や「効率」の概念そのものをここで大きく変えるという、発想の思い切った転換を求められているように思える。われわれの陥っている袋小路を抜け出る道は、おそらくこの種の転換への知恵の出し方にしかないだろう。・・・これからは、全員が同じ教育内容を受けるような形式的な平等ではなく、個性に応じてそれぞれ異なるものを目指す実質的な平等を実現していくことがますます重要になる。例えある程度経済的に非効率になっても、教育的に効率的な方が良いのだと考えるべきなのだ。
具体的には、選択の幅を広げ、移動をもっと自由にし、コースの取替えの可能性を拡大し、寄り道してゆっくり成長する者にはその自由を与える、等を通じ、ゆっくり成長するものに安心のいく道を用意すること、等である。われわれはこのような意味で、新しい時代にふさわしい「平等」と「効率」の概念の確立に努めて行きたい。(つづく)
現実の教育改革(11月28日更新)
「答申」はこの後、高校教育と生涯学習を中心に具体的な改革案を積極的に提言していく。例えば−
「現在、高等学校を中途退学する者は約12万人にも及んでいるが、彼らが学習したくなったときには、いつでも学校に戻ってこられるようなルートを設けておくことが必要である。高等学校は義務教育ではないのだから、一般の広い社会常識として、『学校に行かなくてもいい自由』が、『生涯のいつでも学校に戻れる自由』とともに、確立されることがどうしても必要である。生涯学習の見地を、本審議会が同時に強調しているゆえんはそこにある。」といったように。
長い引用になってしまったが、これが〈国家の側〉が書いた「日本の教育の抱える問題と改革に向けた展望を記したテキスト」として、有効に活用できるのではないか、むしろしたたかに活用すべきではないかと、僕は考えている。〈私たちの側〉が発言し続け、教育実践として取り組み続けてきたものと、もちろん同じとは言わないが(対立するものも少なくはない)、大きく重なる内容を持つ答申が、果たして今後「国家権力」を持ってどのように実現されていくのか、期待を抱いたことも正直に吐露しておかねばならない。ぜひ全文を読まれることをすすめたい。
この答申がその後の教育改革の幕開けを宣言したかのように、引き続く第15期中教審は96年の答申で、「生きる力」と「ゆとり」をキー概念にして「学校のスリム化」「自ら学び、考える教育」への転換を説き、また学校週5日制について「21世紀初頭をめどに」完全実施を目指すよう提言した。
(12月7日更新)
さらに97年に第16期中教審が発足するのだが、ここから改革への舵取りが大きく修正され、又矛先が鈍らされていくことになる。「教育は『自分さがしの旅』を助ける営み」として、「全員一斉かつ平等に」という考え方から「それぞれの個性や能力に応じた方法、内容、仕組みを」という考え方への転換を掲げ、改革の装いを凝らしながらも、制度改革の目玉として公立中高一貫校(中等教育学校)の導入や稀有な才能を持つ者の高校2年終了時点での大学入学を認める「飛び級制」などを提言する。又、「心の教育」を提言し、「生きる力」を社会全体で培うことを目指して家庭教育の充実を呼びかけることになる。
2002年1月には、文部科学大臣が「確かな学力向上のための2002アピール『学びのすすめ』」を発表して、「学習指導要領は最低基準であり、理解の進んでいる子どもは、発展的な学習で力をより伸ばす」「放課後の時間などを活用した補充的な学習」などに言及した。
このように変転する方針の「揺れ」は、「授業時数を約8割に削減した上での、内容の3割削減、厳選」に対する親の「学力低下」の不安を背景にした動きともいえるのだが、一方で文部科学省内でのいわば「国際派」と「保守派」の、政治家も巻き込んだ綱引きという、生々しい政治劇が見て取れる。
完全学校週5日制がスタートしたその年の4月から、「土曜日も授業する」ことを売り物にする私学やら、公立中学校、高校でも「土曜日の補習授業」をする学校が現れるなど、旧態依然たる学力観、受験に打ち勝つ学力にしがみつく実態を見て、暗澹たる思いに駆られてしまう。
14期中教審答申が喝破した、「日本人が自らの生き方を変えずして、教育を良くする政策を他人に、学校に、関係官庁に期待している限り、いつまでたっても根本的な変化を教育の世界に引き起こすことは難しいであろう」という通り、教育改革への道はまだまだはるかに遠い。(おわり)